美濃焼

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美濃焼とは
美濃焼とは土岐郡の旧笠原町を含む多治見市・土岐市・瑞浪市・可児市を中心とした岐阜県の東濃地方で作られる焼き物の総称です。地理的には六古窯(平安時代から鎌倉時代に始まった窯・産地で瀬戸・常滑・信楽・備前・丹波・越前を言います)の一つである瀬戸と極めて近く、歴史的にも人と技術の交流が盛んな地で、現在も美濃と瀬戸の関係は密接で深いものです。
東濃地方は古くから美濃焼とタイルなどの建築資材含む焼物が盛んで窯業を地場産業として栄えてきました。特に多治見市や土岐市には自治体からの誘致などがあり、美濃焼の工場や産地問屋と流通センターが集まり、東濃地方の美濃焼と陶磁器産業の中心地に発展しました。

美濃焼の起源
美濃焼は須恵器の流れを汲む焼物でその起源は奈良時代まで遡ります。しかし、美濃焼の発展の確かな過程は確認されておらず2つの説が存在します。
1つの説は平安時代に東濃地方で焼かれた瓷器(しき 灰釉陶器)をルーツにした鎌倉時代・室町時代へ続く釉薬を施さない山茶碗の生産と、室町時代になって瀬戸地方から伝わった釉薬を施した焼物の生産とが、後の大規模な窯での施釉陶へ続く生産が基となったと言うものです。
もう1つの説は瀬戸の猿投山(さなげやま 現在の愛知県豊田市猿投町)の近くで発祥した瀬戸の陶業には『一家一人の制(長男だけが窯を代々継いで、次男以下の者は他の土地へ移住すると言う掟)』があり、その次男以下の陶工が良質な陶土と窯を持つ環境を求め東濃地方へ移ってきた後に東濃の豪商である土岐氏から支えられて桃山陶業を興し桃山時代末期から文禄時代・慶長時代に織部や志野といった陶器を焼いたと言うものです。

美濃焼の歴史
東濃地方には良質の陶土が豊富で平安時代から焼物が盛んに焼かれていました。東濃地方から当時の日本の中心であった京都へも陶器を納められていたことが醍醐天皇の『延喜式』に陶器調貢の国と定められていることから知ることが出来ます。
京都と流通した桃山時代には、京都の茶人や陶工たちと美濃の陶工の交流が盛んになり、美濃焼は京都の文化の影響を受け芸術性を高めながら日本各地に流通し発展しました。後に、千利休と『茶の湯』の完成によって美濃焼は織部・志野・瀬戸黒・黄瀬戸などの茶碗と陶器が持て囃される絢爛な時代を迎えました。
美濃焼
美濃焼は桃山時代以降に千利休、古田織部などよって人気を得て隆盛を極めましたが、江戸時代の茶陶では野々村仁清(にんせい)により確立された『侘び寂び』に人気を奪われるようにそれまでの華やかさを失い衰退していく結果となりました。
その頃、東濃地方から比較的近くの瀬戸地方も有田焼の磁器の流通と発展に伴い瀬戸焼が衰退していましたが、有田焼のような磁器を焼こうとする機運が高まっていて、3年間磁器の製造方法を有田で勉強し習得した加藤民吉が瀬戸へ帰郷しました。
すると磁器の製造方法が瀬戸から美濃に伝わり、磁器の原料を豊富に抱える東濃地方はその風土を活かし、それまで行ってきた陶器の生産を磁器の生産へと大転換させました。有田で日本で初めて磁器が焼かれてから、200年近く後のことでした。

美濃の近代窯業
明治時代には急激に美濃焼の国内需要が高まり、それまでの絵付けとは異なり合理的・経済的な摺絵や銅版印刷などの技術が開発され、顔料の輸入も始まりました。合理性を追求し大量生産が可能になり、美濃焼は全国へ広がり東濃地方は陶磁器の大きな産地と発展しました。しかし、経済性・合理性・大量生産を追求した結果、一方で粗悪な製品をも全国に流通させてしまう結果を招いてしまいました。有田焼や清水焼など日本の他の産地で作られた焼き物に比べ『粗悪な安物』・『安かろう悪かろう』とのレッテルを貼られしまうような評価でした。そのような評価に憤慨した西浦円治は加藤五輔の協力を得て繊細な染付け吹絵による絵画的表現を現した磁器を焼くことに成功しました。それが西浦焼です。西浦焼は海外にも輸出されパリ万博では表彰されもしましたが1911年(明治44年)に世から消えていきました。
さらに昭和の時代になると、焼成に使われる燃料も重油やガスへと進歩し、窯も石炭窯から重油窯、ガス窯に、窯の形状ではトンネル窯やシャトル窯などへと進歩し、良質な製品の量産化が進められました。
現代の美濃焼 陶器
現代の美濃焼 磁器
現在、東濃地方で美濃焼の名前で生産される陶磁器は非常に種類が増えて多岐に渡っています。食器や花瓶などの他、タイル、レンガ、ガイシなどの多くが東濃地方で生産されていが、食器の生産が特に盛んです。
消費地では円高による海外生産品のシェアが大きくなっていますが、和食器・洋食器の国内での生産量の約半分は東濃地方で焼かれた美濃焼です。また、美濃焼は海外へも輸出され高く評価されています。

美濃焼の代表的な焼き物
1.織部
熱田神宮宮司古田織部の好みで作られた焼き物であることから『織部』の名がつきました。
釉薬と文様、さらに粘土の違いにより、黒織部・青織部・鳴海織部・赤織部・総織部・志野織部・美濃伊賀・美濃唐津などに区別されている。
1.黒織部
全体に鉄釉を掛ける織部黒とは異なり一部を窓抜きにし、そこに鉄釉で文様を描きさらに白釉を掛けたものを黒織部といいます。やはりほとんどが沓茶碗です。絵文様は身近な自然風景や、幾何学文様が一般的です。
2.青織部
一部に織部釉を施し、残りの部分に鉄釉で絵を描き、さらに白釉を施した焼き物を青織部といいます。
絵文様は、白と黒、角と丸、大と小、抽象と具象などが非対称に描かれています。
3.鳴海織部
生地に焼成の際に伸縮率の近い白土と赤土を重ね合わせ成形し、釉薬、文様等は青織部と同じ技法を用います。複雑な文様構成で鮮やかな色彩が特徴です。
4.赤織部
鳴海織部に用いる赤土を用いて鉄絵文様や白化粧土で装飾します。茶碗、鉢、皿等にしばしば見られます。
5.総織部
織部でも特に灰釉に銅を混ぜて作られる銅緑釉を施された焼き物を指します。生地に印判や線彫で紋様をつけたものが多く、皿や鉢に多く見られますが、茶陶にはあまり見ることが出来ません。
6.志野織部
古志野が大窯で焼成された物であるのに対し、登り窯で焼成された物を志野織部と言います。登り窯での焼成は熱効率が良く生地が比較的薄く作ることが可能で、釉薬も均一になります。その結果、釉薬の下の絵が表面に浮き出るようになります。
7.美濃伊賀
形状や技法で伊賀の焼き物を真似たことから伊賀美濃と言われます。
伊賀の焼き物は釉薬を施さない生地に自然釉が作り出す魅力に対し美濃伊賀では、生地の一部分や全体に白化粧を施し、さらに鉄釉を一部や全体に施し焼成します。薪の灰が作品を被うことや、焦げなどで伊賀とは異なる味わいに仕上がります。花生けや水指等を始めとした大きな焼き物に見られます。
8.唐津織部(美濃唐津)
唐津焼の風合いを持った美濃の織部を言います。加藤景延により、唐津から導入された登り窯と一緒に美濃に伝わったと言われています。日常の食器に多く見られます。
2.黄瀬戸
薄手に作られた生地に木灰釉を薄く施し焼成した焼き物で、室町時代から茶人に珍重された淡い黄褐色を帯びた焼き物です。菖蒲や秋草などの線による描写、菊などの印花に鉄釉の焦げた色が魅力です。
3.志野
長石釉を施した白い陶器で、その種類は鉄絵具の使い方で、無地志野・絵志野・練上志野・鼠志野・赤志野・紅志野などに分類されます。作品に施された長石釉の白さと柚子肌の中から浮かび上がる下絵が魅力です。
4.瀬戸黒
16世紀末期に焼かれたもので、引き出し黒などとも言われています。生地に鉄釉を施し、1200℃程度まで焼成し、一度窯から取り出し水に浸けるなどして急速に冷却します。そうすることにより、本来窯の中では褐色や天目になる表面が光沢のある黒に出来上がります。

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