古九谷は有田焼・・・? |
陶磁器の歴史には様々な説と謎がありますが、九谷焼の謎は実に興味深いものです。それは古九谷と呼ばれている1655年頃から焼かれた焼き物が『有田焼である』、『九谷焼である』と議論されているものです。
議論の発端は佐賀県の有田焼の窯の跡から九谷焼で最も古い焼物である古九谷と同じ絵柄の染付の磁器や色絵の焼き物の欠片が発見されたこと、現在の石川県加賀市山中町九谷の古窯跡で出土した磁器の欠片が古九谷と言われている磁器の生地とは全く異なったものであったこと、また古九谷の磁器の裏に描かれた染付文様と酷似した磁器の欠片が昭和30年代の佐賀県有田町の肥前古窯跡の発掘調査で発見されたことなどから『古九谷は有田で焼かれた磁器ではないか?』とする説が生まれ、この説から『古九谷は九谷で焼かれた磁器ではなく、初期有田焼の色絵である』と言う学説が有力になりました。 |
しかし、古九谷の磁器は現在の山中町九谷で『大聖寺藩の命により焼かれていたと』言われている上、九谷の古い窯跡を発掘調査した際には色絵の磁器片が発見され、石川県埋蔵文化財センターの平成10年の発表には、『九谷の古い窯跡から200メートル程の遺跡で“”色絵卍文色見陶磁片”が発見された』とあることから、生地の焼成も絵付も九谷の地で行われていたとの説が強くなりました。 |
では九谷の古い窯の跡から発見された磁器の欠片が古九谷の生地とは全く似つかないものであったことは、どう説明すれば『古九谷は有田焼説派』『古九谷は九谷焼説派』の両者が納得出来るのでしょうか?
九谷焼に関する現在の一般論では良質の磁石が発見された九谷で1655年(明暦元年)から加賀百万石により藩の窯として大聖寺藩の初代藩主であった前田利治が後藤才次郎に命じて焼物を作らせた事が九谷焼の始まりと言われていますが、その時代の九谷焼は約45年間の短い間で姿を消してしまいます。
九谷焼の初期の窯は発掘調査の結果、斜面に築かれた連房式登窯(穴窯に比べ熱効率に優れている)であった事が知られています。しかし、発掘された磁器の欠片などから窯内の焼成温度はあまり上がらなかったようです。当時の九谷の古い窯で焼かれた生地には鉄分が多く、焼成時の温度が低かったために磁器を白く焼くことが出来ず表面は粗雑な肌合いのものでした。その粗い生地表面を全て被い隠す為に生地の全てを絵で覆う独特な絵付けの九谷焼が発展したのでしょうか?
初め、窯の目的は磁器を焼成するものであったかも知れませんが、それらの窯は色絵付を目的に使用されたのではないかの説も生まれました。 |
良質な白生地を焼くことが出来なかった九谷と加賀藩では良質の生地が焼成され磁器が製品化されていた有田焼の生地を購入したのではないかとの仮説があります。
加賀藩の前田利常は当時唯一海外との接触のあった長崎平戸に藩の出張所を置き、鎖国の時代でも輸入品を買い付ける家来を長崎に常駐させていました。そこで、家来達はきっと東インド会社によってオランダなどのヨーロッパへ輸出される白い生地の有田焼を見ていたと考えられるのです。藩内の窯で生地を作った場合に良い生地を作る事が出来ないとしたら、加賀百万石程の莫大な財力があれば苦労をして生地を作るより、良い有田焼の生地を購入してその生地に絵付けをした方が合理的で経済的だと考えるのは自然です。当時の加賀藩は北前船を持ち既に海運を行っていたのですから九州有田から石川県金沢まで生地を運ぶことなど容易いことだったのでしょう。 |
『古九谷なのか有田焼か?』の議論は最終的な結論が出ていません。
九谷には『絵付を離れて存在しない』と言う言葉があります。その意味を考えるとどこの産地の生地であっても『絵付が九谷の生命』であると言うことは確かなことのようです。 |