有田焼

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日本で最初に焼かれた磁器
有田焼の歴史は1604年まで遡ります。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に前国鍋島藩主の鍋島直茂が朝鮮半島から陶工の李参平(イ・サムピョン 日本名 金ヶ江三兵衛〔かながえさんべえ〕)を連れて来ました。
そして1604年、李参平は佐賀県有田の泉山に良質なカリオンを含む白磁鉱を発見し窯を開きました。その後、白川天狗谷窯で1616年(諸説あり)に日本で初めて磁器が焼かれました。それが有田焼と日本の磁器産業の始まりです。
現在の愛知県の瀬戸地方では8世紀頃から焼き物が生産されていましたし、有田地方でもそれ以前にも朝鮮人の陶工たちにより陶器が焼かれていましたが有田独自の磁器が焼かれるようになったのは泉山の磁石の発見以降になります。それまでの日本の焼き物は陶器や須恵器などであり磁器ではありませんでした。
泉山の磁石
その後、有田の焼き物は鍋島藩の保護に守られ有田焼として発展し続け優れた作品や商品を作り出しました。そして磁器を焼く事に成功した有田には日本各地から陶工が集まり、やがて、有田焼と有田で始まった磁器生産の技術が日本全国に広がっていくことになりました。

東インド会社によりヨーロッパへ渡った白い磁器
有田焼の磁器は染付・染錦などに代表される古伊万里様式、濁手・赤絵などで知られる柿右衛門様式、色鍋島に代表される鍋島様式の3つに大きく分類されます。
鍋島藩により献上品・藩御用として保護された色鍋島は有田の地、藩の外へ流出する事が殆どありませんでしたが、有田焼の他の様式である古伊万里様式と柿右衛門様式の磁器は1653年以降、長崎のオランダ商館から東インド会社によって伊万里港から“伊万里”の名でヨーロッパなどへ輸出されるようになりました。
東インド会社はそれまで中国の景徳鎮で焼かれた色絵磁器などをヨーロッパへ輸出していましたが、明代末から清代始めにかけての中国国内の混乱により中国の磁器をヨーロッパへ輸出することが出来なくなってしまいました。
そこで、東インド会社は日本の有田で焼かれている色絵磁器に着目し中国の磁器の代わりに有田焼をヨーロッパへ輸出し始めたのです。
17世紀柿右衛門復刻 色絵吉祥紋
ヨーロッパには当時、有田焼のような白い磁器が殆どなく、“伊万里”と呼ばれた有田焼は上流階級の間で人気となり大変に珍重されました。
17世紀から18世紀中ごろになると、“伊万里”の名で人気を集めた有田焼が数百万個以上も東インド会社によりヨーロッパに輸出されました。その当時の日本・有田焼は柿右衛門様式の完成期に当たります。
柿右衛門様式による有田焼の特徴は白い生地に空間を生かしデザインされたもので、それまでヨーロッパが景徳鎮から輸入していた磁器とは全く異なる非常に人気の高い商品でした。
オランダのデルフト地方を始めドイツのマイセン地方などの陶器の産地では遠い日本から届いた有田焼の磁器を元に写し絵が行われまた磁器の研究もされました。
現在のヨーロッパの銘窯にも有田焼のデザインは脈々と受け継がれています。
ドイツのマイセンで有名な染付デザインの“ブルーオニオン”も有田焼の石榴や桃が模写されたものである事、ハンガリーの世界的な銘窯であるヘレンドの“インドの華”も柿右衛門様式が基本になっていて、それが150年以上も愛され続けている事をご存知の方も多いことでしょう。

有田焼の様式について
1.柿右衛門様式
濁手と言われる乳白色の生地に余白を生かし、赤絵などの鮮やかな上絵を施した磁器で、中国の景徳鎮の民窯の製作技法や様式が基礎となっている。
赤・黄・緑、染付とは異なる青の4色ですが、後に金の装飾が行われるようになりました。有田の色絵技術の開発者、酒井田柿右衛門窯の所有する技術でヨーロッパに伝わった色絵磁器と、その流れを汲む磁器を言う。
2.古伊万里様式
初期の古伊万里様式の有田焼は白生地に藍の染付が施されましたが、後に透き通るように白い生地に華やかで繊細さが特徴的な絵付が施されるようになりました。
一般的に白生地に染付を施し、その上に金、赤、緑、黄色などで装飾したものを古伊万里様式と言いますが、藍色と金、赤の組み合わせが基本で、金欄手(きんらんで)と呼ばれるものもあります。
3.鍋島様式
鍋島藩の保護下で藩の献上品や御用の品を精巧で完璧さを求め採算を度外視して作られました。
鍋島藩の窯は現在の伊万里市内にあったもので、藩の献上品や御用の品を焼いた登り窯であるが、27〜30の窯室の内、それらを焼いた窯室は中央部の3室のみで、他の窯室では民窯の雑器などを焼いていたと伝えられています。
伊万里市の大川内山に点在する窯元で現在も鍋島様式の技術が継承されています。
鍋島様式には白磁に染付を施し、さらに赤や黄や緑などの色を用いた色鍋島と、染付の藍鍋島があります。多くの作品は木杯形の皿で日本的な絵柄が描かれ、櫛高台と言われる独特な縦の縞模様があります。

柿右衛門様式
古伊万里様式
鍋島様式 色鍋島
《 柿右衛門様式 》 《 古伊万里様式 》 《 鍋島様式 色鍋島》

有田焼と泉山採石場
1604年に朝鮮人陶工の李参平により発見された泉山陶石と泉山採石場ですが、原料の一部に熊本県産の天草陶石を配合するなど、江戸時代以降は次第に磁器の原料の主役が変わってきました。
その主な原因は泉山採石場で産出される磁石は可塑性が乏しく成型が困難で、また鉄分が多いために良質な白い磁器を作るのに不利である事が挙げられます。
天草の磁石は泉山採石場の磁石に比べると鉄分が少なく良質なカオリンをより多く含んでいるため、泉山の磁石より磁器を生産する際に有利ですので、原料が泉山磁石から天草の磁石に移行していくのは自然なことでした。
明治35年、それまでは泉山磁石を原料とした製品しか出品が認められていなかった有田焼の品評会でも天草陶石を原料とした製品の出品も認められるようになり、昭和の時代になると泉山磁石の使用される割合が30%を下回るようになりました。
一時期はタイルなどに使用された泉山の磁石も現在は採石場が掘りつくされ採石場の跡だけが残っているだけとなっています。
現在の泉山採石場

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