瀬戸焼

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瀬戸物と瀬戸焼
瀬戸物と普通に使っている言葉ですが『瀬戸物』と言う言葉は『陶磁器』の通称語で、愛知県瀬戸市と周辺で生産される陶磁器が全国に流通し主に東日本を中心に使われるようになった言葉です。その『瀬戸物』に対し、西日本では九州の佐賀県西部から長崎県一帯で焼かれた唐津焼が元になり、陶磁器を『唐津もん』と呼ぶことがあります。
愛知県瀬戸市を中心とした地域は約500基の古窯跡を含む東日本最大級の窯業地帯です。
そして、瀬戸焼はその地域に六古窯(平安時代から鎌倉時代に始まった窯・産地で瀬戸・常滑・信楽・備前・丹波・越前を言います)の時代から続く陶磁器の総称を言います。
その瀬戸焼は平安時代に霊峰として崇められてきた猿投山(さなげやま 現在の愛知県豊田市猿投町)付近で、それまで焼かれていた須恵器(すえき)の後に灰釉を施した『瓷器(しき 灰釉陶器)』が焼かれた事に始まったとされています。

瀬戸焼と加藤四郎左衛門景正
瀬戸焼の名を全国に広めたのが現在でも瀬戸の窯業に従事する人や地元の人に『四郎さん』と慕われている陶祖である加藤四郎左衛門景正です。
加藤四郎左衛門景正については説がいくつも存在し、出生や中国での陶磁器技術の修行、帰国後の行動、没年などがそれぞれの説で異なりますが、説を総合すると加藤四郎左衛門景正は鎌倉時代初期に中国に渡り6年の間、製陶技術を勉強し、帰国後瀬戸に窯を開き日本で初めて釉薬を施した『古瀬戸』を作り出したようです。
その後、瀬戸で焼かれた陶器は全国に知られるようなり広く流通し、瀬戸焼の名前も全国に知られるようになりました。瀬戸焼の鎌倉時代に焼かれたものは優美な印花文や画花文を施した作品が多かったのですが、室町時代には皿・鉢・碗などの日用品の生産量が増えました。
しかし、江戸時代初期、九州の有田で磁石が発見され1616年(諸説あり)にはやはり有田の白川天狗谷窯で日本で初めての磁器が焼かれました。有田の磁器生産が急成長し、全国に広まるに従い瀬戸焼の衰退が始まりました。

瀬戸焼の変遷 陶器から磁器へ
江戸時代後期になると、瀬戸でも磁器を焼こう、有田に勝る磁器を瀬戸で作ろうと言う機運が高くなりました。
それまで衰退の一途を辿っていた瀬戸焼ですが、当時の瀬戸と瀬戸焼を救ったのは窯神公園に像が建つ加藤民吉です。彼は単身で遠く九州有田へ赴き3年間の修行を重ね、磁器の製造技術を学び1807年(文化4年)に瀬戸へ帰って来ました。
瀬戸では新しい『丸窯(まるがま)』が加藤民吉によって導入され、さらに生産業務の分業制が整い瀬戸の磁器を生産する能力は劇的な発展を遂げました。さらに、今まで従来の陶器の他、新しく染付磁器の生産も盛んに行われるようになりました。
当時の瀬戸には、『一家一人の制』と言う制度があり、家の二男以下の者が陶業を継ぐことが出来ませんでした。
しかし、その後は磁器の生産に限り二男以下の者も開業できるようになったことや、それまで陶器の製造に従事していた者の中にも陶器の製造からさらに新たに磁器の製造を志す者が多くなったことなどから磁器の生産量は陶器の生産を追い越す程に大きく発展しました。

明治時代以降 近代の瀬戸の窯業
鎖国の時代が終わり明治時代になると、海外から様々な物と文化が怒涛の如く押し寄せて来ました。そして、時の明治政府は『富国強兵』の方針を打ち出し西欧諸国に対抗しようとしました。
明治政府は様々な産業の振興に力を注ぎ窯業産業の振興もその中にありました。そして1873年(明治6年)のウィーンで開催された万国博覧会にも瀬戸の陶磁器が出品されたのです。万国博覧会では『瀬戸物』は極めて高い評価を得て『瀬戸』の名は海外にも知られるようになり、同時に海外からの注文も増加するようになりました。
1876年(明治9年)、東京で輸出貿易を志していた森村市左衛門等によるノリタケの前身『森村組』がニューヨークに雑貨店を開き、瀬戸の陶磁器を大量に輸出していたことなども重なり1883年(明治16年)には、瀬戸で製造された陶磁器の70%以上が輸出されていた事からも『瀬戸物』の人気の様子を知る事が出来ます。
当時の陶磁器焼成時に使われていた窯の主流は登り窯でしたが、1902(明治35年)年には燃料コストが非常に効率的・経済的な石炭窯が開発され、轆轤(ろくろ)の動力化や石膏型による成形技術の開発、転写紙の発明と転写技術の導入が行われ、大量生産化がさらに進み近代化も著しく進歩しました。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が開戦しました。
ヨーロッパ諸国が参戦するとヨーロッパの陶磁器産業は大きな打撃を受ける事になります。マイセンなどドイツの装飾品や置物は欧米諸国で非常に人気の高いものでしたが、それらの商品が生産されなくなった事により日本の瀬戸で作られた陶磁器が着目される事になりました。
日本では第二次世界大戦の激化によりノリタケのボーンチャイナを除く一般磁器の製造は政府の令により中止されましたが、瀬戸の陶器の生産は石炭の代わりに亜炭(石炭化が充分でない水分や不純物を多く含み得られる熱量が小さい炭)を使用しながら日常生活用の陶器や金属製品の代用品を製造するなどして終戦を迎える事になりました。瀬戸は戦争による被害が比較的小さかったこと、戦後の物資の不足による需要の急激な増加などで、瀬戸と瀬戸の窯業は急速に復興する事が出来ました。また輸出が再開されるようになると、かつて人気の高かった装飾品や置物などが盛んに輸出され、さらに洋食器も輸出されるようになりました。このような厳しい状況の戦中戦後を乗り越えて、瀬戸と瀬戸物は高度経済成長時代を迎えさらに発展することになりました。
瀬戸では和食器の他、洋食器などの陶磁器も多く生産していますが、現在の瀬戸の窯業はそれまでの瀬戸焼の枠を超えたタイルや置物などのインテリアを生産しています。瀬戸と近隣の地で産出される良質な陶土と長い年月と経験に蓄積された技術が、食器だけでなく幅広い分野に応用され世界的にも注目されているようです。さらに近年、ファインセラミックの技術が目覚しく進歩し海外から注目されています。

現代の瀬戸と日本の窯業
戦後の急速な復興により、日本と日本のあらゆる産業は世界で台頭します。陶磁器も例外ではありません。
1971年(昭和46年)8月、アメリカのニクソン大統領は自国のドル流失を防ぐため、ドルと金の交換停止を発表し、それを受け、同年12月に通貨の多国間調整と固定相場制の維持が行われました。しかしその制度は長続きせず、1973年(昭和48年)に日本は世界の先進各国と共に1ドル360円の固定相場制から変動相場制に移行し、それを境に円高ドル安の流れが始まりました。
その後、円高はさらに進み日本には世界のあらゆる物資が輸入されています。現在、日本で流通している陶磁器の半数近く(個数ベース)は日本以外の国で作られたものです。日本の他の産地同様に瀬戸の地場産業である窯業も円高の波をなかなか超えることが出来ず、日本の窯業は不況業種に指定されてしまうほどです。
瀬戸の焼き物を始め、陶磁器の歴史は常に新しい何かの開発と困難を乗り越えてきた歴史でした。きっと新しい瀬戸に生まれ変わり『瀬戸物』が今まで以上の輝きを取り戻すことは間違いありません。

代表的な瀬戸焼
1.古瀬戸
鎌倉時代に加藤四郎左衛門景正が中国で学んだ製陶技術は鬼板(尾張・瀬戸地方で産出される含鉄土石の一種)を砕き木灰と配合して焼成するというものでした。その後の安土桃山時代になると、千利休や古田織部などの茶人により織部黒・瀬戸黒・志野・織部・黄瀬戸などの風雅な茶陶が生み出されました。
現在も織部黒・瀬戸黒・志野・織部・黄瀬戸の作品が作り出され、それらはどれも伝統的で古典的な渋さを持っています。
2.赤津焼
六古窯の一つ瀬戸で焼かれる赤津焼は昔ながらの伝統と製法を今に伝えています。
赤津焼の特徴は平安時代に始まった灰釉・鉄釉・古瀬戸釉・黄瀬戸釉・志野釉・織部釉・御深井(おふけ)釉のいずれかと、削り目・布目・箆目(へらめ)・印花・透かし掘り等の装飾技法を用いています。
現在は茶道具・華道具を始め、八寸、向付、鉢などの和食器や洋食器とは趣きの異なるコーヒーカップなどを熟練の陶工が轆轤を回し丹念に作り上げています。
赤津焼は1977年(昭和52年)に経済産業大臣から伝統工芸品に指定されています。
3.瀬戸染付焼
1807年(文化4年)に加藤民吉が有田で磁器の研究をし、磁器の製法を瀬戸に持ち帰ったことが基礎になり、さらに、絵師から指導を受けた中国風の柔らかで潤いのある絵を施す絵付技術が融合・発展し技法が確立されたものが瀬戸染付焼です。
その後も絵付け師は努力を重ね、瀬戸の自然を描く瀬戸焼独自の染付が完成しました。明治時代以降、染付磁器の生産はさらに充実し、和食器だけでなく、花瓶などのインテリアも作られるようになり、それらの製品は現在も作り続けられています。
瀬戸染付焼は赤津焼同様に経済産業大臣から1997年(平成9年)伝統工芸品に指定されています。

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